LINE、FACEBOOKが大はやり
6月11日の日本経済新聞一面の「物価考」に、海外にいる家族との電話やメッセージのやりとりでLINEが使われているという話の後に、利用者が5億人に迫ると書かれている。無料で、即座に海外の親族・知人と小さい端末だけでやりとりできるというテクノロジー進化には、驚かざるをえない。
筆者が小学生の時に、父がタイに赴任していて、数ヶ月に一度、現地から父が電話をしてきた。あくまで当時の両親の話なので不正確ではあるが、3分前後で3000円前後の国際通話料金がかかるということで、今から考えると笑えるのだが、ストップウオッチで時間を計りながら「もう○○分XX秒だよ」とか言いながら、話をしたことを思い出す。そのときと現在の通信事情を比較すると、隔世の感がある。
Facebookが就職活動にとって必須なコンテンツになっていることなどを含めて、デジタルデバイドがこれからもたらすであろう貧富・学歴・機会の差に思いを馳せずにいられない。
「個人の最重要資源=時間」と「企業の最重要資源=情報」
ところで、筆者は、LINE、Facebook、Twitterなどは、やっていない。理由は簡単で、例えばFacebookでいえば、いくら知り合いとはいえ、人が「○○で夕飯を食べた」「XXに行った」などという情報のどこが面白いかさっぱりわからず、そんなものを読んでいる時間が無駄と思うからだ。他の人のページを読んで、無理やり面白そうな記事を探したりして、自分が始めるインセンティブを見つけようと努力したりしたが、はっきり言ってやりたいと思ったことは一度もなかった。ましてや、「いいね!」ボタンなど、押したいと思ったことなど一度もない。「いまいち!」とか「いけてない!」のような否定的ボタンがない中での「いいね!」が、必ずしも読者の本音を表していないことは子供でもわかるロジックであろう。また、LINEやFacebookは、そもそもの問題として、友達の輪をデジタルに形成することを前提としているが、これについては明るい側面ばかりではないと感じている。誰でも多くの知り合いがいると思うが、各人との間の関係の濃淡は、アナログ的かつ暗黙的に行うことが人間の知恵ではないかというのが私の考えだ。
更に言えば、こうした媒体に記事を書くことの時間的無駄も指摘したい。私の立場から申し上げると、正直なところ、平日に仕事を一生懸命やった上で睡眠を十分にとり、休日には休息をとったり趣味をしたり、という感じで時間の割り当てをしていくと、とてもこうした媒体にコメントなど書いている時間はない(この「大木レポート」は、あくまで仕事でやっている)。
ところで、LineやFacebookは、実際にやっているかどうかは別として、そのユーザーのメッセージのやりとりや、その友達の属性、その友達のメッセージ内容…などを今はやりのビッグデータで分析することで、そのユーザーに関するかなり多くの有益な情報を蓄積できる。筆者のように文章を書くことを一種の生業としてきた人間の立場からは、色々な人の文章をざっと読むだけで、「この人は論理性が欠けている」とか「正確が粘着質ではないか」「気立てが良さそうだ」くらいのことは簡単に推測がつくが(誰でもそうかもしれません)、特定の個人が意識的・無意識的に発信する無数の情報をもっと科学的に分析すれば、おそらく、分析対象であるユーザー自体も気がついていない自身の特徴があぶり出しになったりすることさえあると思われる。
以上のことを総括すると、LineやFacebookのユーザーは、通話などのサービスを無料で使わせてもらう代わりに、自分の「情報」を無料でLineやFacebookに渡していることになり、かつ、そのような業者にとって貴重な情報を蓄積してあげる過程で、個人にとって最も大切な資源である「時間」までLineやFacebookのために消費しているのである。これら業者が、広告収入があるとはいえ、なぜ無料で通話等のサービスを提供しているかを考えれば、彼らが得ている「情報」や「時間」の価値がいかに高いかが感覚的に理解できよう。
筆者は、それら業者のために「時間」を費やすことは1秒でも嫌だし、自分の情報をただで提供するほどお人よしでもない。私の情報を開示して欲しければ、100万円以上の対価が欲しいところだ(そんな価格では誰も欲しくないだろうが)。これを無料通話等の便宜だけで回収するのは何年もかかる計算になり、全く割りに合わないと私は考えている。
いずれにしろ、Line等の愛好者は、自分が無料で得ている便益に喜ぶだけでなく、自分が無料で提供している「時間」と「情報」の価値をしっかりと考えたほうがいい。そうすると、決して自分が一方的に得をしていないことが実感できるであろう。
大木昌光