自社株買いが企業価値を上げるとされる理論的支柱
90年代の後半に、EVA(Economic Value Added)を使った経営管理手法が流行った。これは、企業が資本コストを超えた利益を計上できているか、を計るものであり、利益をどう定義するかを無視して式を簡略化すると、「自己資本 × (ROE – 資本コスト)」となる。資本コストは、証券アナリスト試験に出てくるCAPMで計算される。日本の平常時長期金利を1~2%、日本株リスクプレミアムを3~5%とすると、ベータ1の会社であれば、資本コストは4~7%になる。つまり、EVAは、仮にROEが資本コストの4~7%を超えていなければ、マイナスになり、その会社は株主の求める利益を挙げておらず企業価値を破壊しているということで、あくまでEVAの計算上は失格会社の烙印を押される。
ところで、EVAの教科書を読むと、資本は少ないほど良いとの趣旨の記述が見られたと記憶している。上記のEVA算出式に数字を代入するとわかるが、資本を自社株買い等で半分の量にすると、利益実額が不変であれば、ROEは2倍になる。その場合、EVAの数値は一般的には上がる(厳密には、資本が減るとデフォルトリスクの上昇を通じて資本コストを高めるので、あくまでその場合の資本コストの上昇が無視できるほど小さいという仮定を置いている)。したがって、EVAの観点からは、自社株買いは極めて有効な手法ということになる。
また、自社株買いにより株数が減れば、利益の実額を不変とすれば、一株当たり利益(EPS)が上昇するため、株価上昇要因になる(ただし、PBRはROE÷資本コストで計算されるから、自己資本減少による資本コスト上昇効果の程度によっては、株価が下がる可能性もある)。
これらが、自社株買いが株式市場でもてはやされている背景にあると考えられる。
投資家の希望通りの財務戦略を進めたら、企業はいくら命があっても足りない。
ところで、リーマンショックの時に、何が起こったかを思い出して頂きたい。社債発行市場や株式発行市場は機能停止し、企業の資金調達環境は大混乱を極めた。大手優良企業でも社債発行が不可能となり、メガバンクのみならず、地銀にまで資金調達のパイプを求めたことは、記憶に新しいであろう。
筆者は、いわゆるキャッシュリッチの企業に会うときには、リーマンショック前後で株式投資家の発言内容が変わったかどうかを必ず聞くことにしている。その結果、ほぼ100%の会社が、リーマンショック前にやれ増配だ、やれ自社株買いだ、と騒いでいた投資家からのそうした要求はリーマンショック後は皆無となり、逆に豊富なキャッシュを背景とする高財務体質が評価されるようになったと回答している。
これだけ見ても、株式投資家の多くが、いかにデフォルトリスクに対する認識が甘いか、いかに企業経営を軽く考えているか、が窺われる。
そもそもの問題として、経営者が企業経営において最も考慮すべき点は、株価を上げることでも、株式INDEXに入ることでもない。「会社を潰さないこと」である。そう考えると、EVAが一般論として述べているような、資本を薄くすれば収益効率が上がるという議論は、資本を削ることでデフォルトリスクが高まることを考慮すると、片手落ちと言わざるをえない。現に、最近はEVAという言葉を全く聞かなくなった。何年も先の経済状況が全く見通せなくなった現在、DCFとEVAは死んだと筆者は理解している。
その上で考えなければならない点が4つあると筆者は思う。一つは、資本は減らすのは簡単だが増やすのは難しいということである。第二に、資本の蓄積は、特に業暦の長い大企業の場合、現在の経営者のみによって実現されたものではない場合が多いということである。それを、今、投資家から株主還元を強く要求されたからといって、安易に吐き出していいのかは、経営者はよく考える必要がある。第三に、製品寿命の短期化やテイルリスク発生確率の上昇が見られる中で、これまでの延長線上で資本を見ていいのか、という点である。第四に、最近良く見られるケースとして、PBRが1倍を大きく超える企業が自社株買いを行うケースがあるが、これはBPSを低下させるという意味で、実施の意義が大いに疑問視されるということである。このことは、PBR2倍の株価が付されている会社が、発行株式数の半分の自社株買いを行うと資本がゼロになるという事例からも、正当性が疑われるのである。
ちなみに、銀行の資本規制は、90年代の前半にわずか自己資本比率4%という水準でスタートしたが、現在は(様々な種類の資本バッファーをかき集めた上でのことであるが)20%という話さえ出ているが、これも、現在の経営環境のリスクの高まりを示す上で興味深いところである。つまり、例えば、昔は自己資本比率30%で十分と考えられていたとしても、今はそれでは足りないというケースが、様々な業界で認められる可能性があると思われる。その意味で、昔に比較すると、筆者は、企業が維持すべき自己資本水準やキャッシュポジションは過去との比較では多めに持つべきと考えている。
最近は、日本経済新聞でも、企業のキャッシュの溜め込みを罪悪視するような論調を張っているが、例えば著名な投資家であるバフェット氏の投資手法からしたら、今みたいに株価も不動産価格も堅調で、誰も彼もが株式投資や不動産投資に関心を持っている段階での投資実行よりも、誰も株式に触手を伸ばさないときの投資が重要ということになるのではないか。であれば、今みたいに資材価格や建設コストが上昇しているときの設備投資は、真に必要な場合でない限り、経営判断としては低質なものになるリスクがある。言い換えれば、ここぞというときまでキャッシュを蓄積することは、チャンスがあれば大きな買収をしたいといった経営方針を持っている会社にとっては、必ずしも悪くないのである。
自社株買いは、企業戦略が手詰まり状況であることの吐露に他ならない…ソフトバンクの孫社長と日本電産の永守社長はやはり別格
そう考えていくと、今更ながら絶妙な投資を実行されたと感服するのは、ソフトバンクの孫社長、日本電産の永守社長である。お二人が素晴らしいのは、民主党政権下の円高で、凡庸な経営者が「不景気だから」とか「円高だから」とか言って無為に嘆いている間に、円高だからこそ有利になる海外企業のM&Aを進めたことだ。そうしたこととの比較で見ると、今、景気が上向いてきたからといって、円安が進んで海外資産が割高となり、資材価格や建設コスト・日用品価格が上昇した中で、設備投資を積極化するというような経営者は、はっきり言って二流である。それをけしかけるメディア・評論家も二流である。
ただし、それでも設備投資をするだけ、しない経営者よりもましである(現在は、どうやら二流の経営者になるのさえ難しい世の中になったようだ)。今みたいな環境下で、外国人投資家などの口車に乗って自社株買いを積極的に行って、さも仕事をしたかのような姿勢を示す経営者は、今設備投資をする経営者にも劣る三流である。これに対しては、前述の日本電産社長の永守氏も最近自社株買いを行ったではないかという反論もあろう。しかし、これは単なる自社株買いとは全く次元が異なり、プロが唸る戦略と筆者は感じている。日本電産の自社株買いは、矢継ぎ早にMAで事業のスケールとスコープの両方を拡大するという積極投資を行っていた中で、それに対する株価反応が鈍かったことから、株式投資家をあざ笑うかのように行われたものであり、その後その自社株は多大な含み益になったうえに、その自社株を日本電産コパル、日本電産リードの完全子会社化に有効活用するという見事な連携プレイまで行っている。これぞプロフェッショナルである。
その意味では、企業経営者は、鉛筆一本売ったことがない大学教授や、経営をMBAの教材(しかも、これは昔の事例で、今は当てはまらない事も多々ある)を通じて左脳でしか理解していない投資家の話など鵜呑みにせず、真に信頼できるアドバイザーを自分の目で探し、自分の頭で戦略を考えるべきだ。
ちなみに、最近はJPX400に入るためにどうするか、をまじめに検討している会社が少なからずあるようだが、そうした会社の経営者は、その時点で、時間や経営資源の使い方を誤っているとしか思えない。本末転倒だ。そんな暇や金銭的余裕があるなら、私なら従業員にもっと報いることを考えるだろう。それは、企業利益の短期的な減少要因になるかもしれないが、従業員の元気を引き出して中長期的な増益要因になりうる。その意味では、これだって立派な設備投資なのである。従業員給与をコストとしか見れない経営者に、人を使う資格はない。また、こうした待遇改善は、個人消費を引上げ、延いては自社の繁栄にブーメランのように戻ってくる。自社株買いをやって、一時的に株価が上がれば、外国人投資家を含む金持ちは喜ぶだろうが、結局は外国人投資家は、主戦場ではない日本市場からはいつかは手を引くのである。そして、その時には、多少の自社株買い効果は、一瞬で吹き飛ぶのである。しかし、従業員の多くは定年まで会社に仕えるのである。その辺りの、思考のバランス感覚を備えた経営者が増えることを、切に願いたい。
大木昌光