菊池社長の起業の契機・目的に深く共感
9月18日にリアルワールド(3691)という会社が東証マザーズに新規上場を果たした。
同社は、870万人会員(クラウド会員)をベースに、主に「クラウドメディアサービス」と「クラウドソーシングサービス」を展開している。
前者は、「Gendama」というサイトを通じて、各種のポイント稼ぎをしたい個人を対象に、様々なポイント獲得手段を提供するもので、主な収入源は広告収入である。収入源が広告であるという意味においては、多くの他のネット企業のビジネスモデルと似ていて、もしかしたら特筆すべき部分は薄いかもしれない。
私が興味深いと思ったのは、後者の「クラウドソーシングサービス」である。これは、同社の顧客である企業から受託した業務を、極限まで「単純化・細分化(マイクロタスク化)」して、同社のクラウド会員が分担して受託業務を行えるような仕組みを提供しているものである。どんな業種の企業でも、標準化により外部にアウトソースできる業務を擁しているはずであるが、同社は、このようなアウトソースされた標準化可能な業務を、更に細分化して、一般の人でもこなせるレベルの仕事の機会を世の中に提供していることになる。これにより、例えば、少し働きたいと思う人が、数分程度(場合によっては数秒)の時間の空きを使って働くことが可能となっている。
この仕組みが世の中にもたらす意義は多くある。まず、子育てや介護等でまとまった時間が取れない人でも就業機会が得られる、また、いつ時間が空くか予測ができない環境下にある人でも、現実に時間が空いたときに同社サイトにアクセスすることで仕事の機会を得られる。更に、東京都心に住む人でも、地方で労働機会に恵まれない人でも、等しい条件で仕事を得られる。
この仕組みの素晴らしい点は、老齢化進行により年々深刻化する人手不足の問題の解消に資することである。もちろん、機械化の進展で、人手不足の緩和はある程度可能であろう。しかし、同社の仕組みは、人手不足に悩む企業と、空き時間に働いて少しでも収入を稼ぎたいと願う個人を、業務の細分化によりマッチングさせて人手不足の問題に機械化とは異なる新しいアプローチをもたらし、しかも企業と個人の間に「Win-Win」の関係をもたらすという意味で、画期的だと思われる。それとの対比で見ると、同じく空き時間を狙ったビジネスでありながら、その時間をゲームに向かわせ、あわよくば課金させるというゲーム会社のビジネスモデルが、いかにも浅ましく品がないと思えるのは、筆者だけであろうか。
ところで、筆者が感心したのは、このビジネスモデルを構築したことのみならず、このモデルを考える契機になった同社菊池社長の生い立ちである。
菊池社長は四国の母子家庭に育ち、働く選択肢が少ない地方に住む中で母親が苦労していた姿を見て、このような状態が改善される方法はないかと色々考えたそうだ。このことが、本事業を考えるきっかけになったとのこと。親孝行の気持ちから生じたビジネスが見事に結実し、その結果として、まとまった時間がとれないために働く機会を失っていた多くの人に、空き時間を使って仕事を行う手段を提供できているという全体像を知り、私は、この仕組みを作り出した菊池社長に心からの敬服の気持ちを抱くに至っている。菊池社長と同じような境遇にある人が、菊池社長の編み出した仕組みでどれだけ救われているかを考えると、この事業の社会的意義の大きさに感服せずにはいられない。
ファンドマネジメントの仕事は、標準化・単純化・細分化は可能なのか?
以上のように、リアルワールド社の「クラウドソーシングサービス」について勉強させて頂いた後に、私はふと小さな疑問を抱いた。私が今携わっているファンドマネジメントの仕事は、どの程度の標準化・単純化・細分化が可能なのか?
これについては、2つの観点を指摘したい。
第一に、ファンドマネジメントの各種プロセスの中で、例えば情報収集やスクリーニングなどの部分の「細分化」は十分に可能に思われるし、また、銘柄抽出過程においても、一定の基準を設けて機械的抽出を行うという形での「標準化」が可能に見えるため、かなりの作業のアウトソースが実行可能なように思われるということだ。これは、必ずしも間違った考えではないであろう。
第二に、とはいえ、企業価値を構成する要素が無数にある上に、その時々で企業価値を構成する材料が異なることを考えると、ファンドマネジメントのプロセスの中には、アウトソース不可能な部分が必ず潜んでいると思われることである。
この第二の点については、例えばビッグデータによる解析の進化を例に取っても、ITでファンド運用の大半のことができるようになる(または、将来にITで解決できる領域が増える)ことは容易に想像できる。ただし、ビッグデータによる解析の多くは、「相関」に基づく分析であり、「因果」の観点からの分析はまだかなり弱いと言わざるをえない。アナリストといわれる人たちでも、時々荒唐無稽の結論が導き出されることがあるが、その理由の一端は、相関係数への過度の拘泥にあり、正確な分析のためには、相関係数一辺倒の分析からの脱却が必要なのである。とすれば、ファンドマネジャーの因果関係分析の独自性が、ファンドマネジメントのリターンの大小を決めるという構図は、今後も継続する可能性が十分にあると考えてよいであろう。もっと言えば、ファンドマネジャー個人の頭脳から生まれる因果関係、相関関係、インスピレーションの無数の組み合わせでポートフォリオが構築されるとすると(そして、そうしたポートフォリオ構築特定が、機械的なアプローチに常に敗れるという状況に至るまでの間は)、やはりファンドマネジメントは標準化・単純化ができない部分が将来も多く残るように思われる。さらに大上段に構えた議論をするならば、因果関係、相関関係、インスピレーションの無数の組み合わせでポートフォリオが構築されるとの前提の下では、ファンド運用というものは一種のアートなのかもしれない。それが正しいとすれば、アート製作を機械で行うことが難しいのと同様に、ファンド運用を機械で行うこと(ないしは標準化を究極まで推し進めてファンド運用すること)は難しいということになる(ちなみに、筆者は、クレジット分析は「サイエンス」、エクイティ分析は「アート」と考えている。そうだとすれば、クレジット分析は、もしかしたら標準化・単純化できる要素がエクイティ分析よりも多いかもしれない)。
そのような考え方がもし正しいとしたらであるが、私は、作曲、ドラマの脚本作り、なども標準化等が難しいという意味でファンド運用に似ていると思っている。そして、この2つの仕事は、基本的には一人で完結すべき仕事であると思っている。この考えが正しければ、ファンド運用も、基本は一人で行うべきであろう。この哲学については、筆者は今後もぶれずに追求して行き、最終判断を自分のみで行うスタンスをこれからも貫徹していきたいと考えている。しかし、この作業は、極めて孤独だ。だからこそ、仲間が必要だ。その意味で、私の所属するファイブスター投信投資顧問という会社は、私のファンド運用に多大なメリットを提供してくれているという意味で、日々の運用業務に不可欠なインフラである。このことは、併せて、「ファンド運用は一人で行うべきであるが、ファンド運用業務は一人では行えない」という当たり前ではあるが重要なインプリケーションを私にもたらしている。
大木昌光