インフレに苦しんだ経験者としては…。
40代から50代の方は、子供の頃に、70年代前半の第一次オイルショック、70年代後半の第二次オイルショックに遭遇しており、その時の記憶が残っている方も少なからずいるのではなかろうか。
私も第二次オイルショックの頃、親が、石油ストーブ用の灯油を買いにいく度に、価格の断続的値上がりに溜息をついていた姿を思い出す。また、この頃は、日本が人口増加局面にあったこともあってただでさえインフレ気味の経済だったところに、石油価格上昇によりインフレの度合いが更に高まってスタグフレーションの様相を呈し、モノの価格が加速度的に上昇していたと記憶している。それは子供でも分かる程、顕著な事象であった。子供にとってインフレの象徴は、菓子の値上がりであり、それを目にするたびに、子供の立場でも溜息をつきたくなったものだ。
インフレって本当にいいことだらけなの?
ところで、日米欧の先進国は、インフレ率2%程度を目標にし、それを下回ることを極めて深刻な事態と捉え、大規模金融緩和まで行って何とか2%のインフレ率を達成しようとしている。しかし、これについて、今一歩腑に落ちない点がある。
第一に、上記については、継続的インフレ状況を善とする前提があるように思われるが、本当にそうなのだろうか?この考え方の前提には、物価が下落し続けると「今買うより将来に買ったほうが得だ」との考えの下で、消費や投資が抑制される、という仮説があると思われる。逆にいえば、物価の上昇時には、積極的な投資や消費が引き起こされやすいということになる。この考え方は理論的には至極真っ当であるが、現実社会において本当に高い普遍性を持つものだろうか?というのも、例えば、最近の食品価格上昇で、少なくとも買い物の主体である主婦の消費マインドは明らかに低下しており、そのことからも見てとれる通り、物価上昇は人々のマインドにブレーキをかける可能性もあるからだ。仮に月5万円の食費の家庭があれば、物価が上がった場合に、いつも買っている食料の購買「量」を落として5万円以内に出費を抑えようとするであろう。その量的消費削減のプレッシャーは、名目賃金の上昇で賄われる(治癒される)というもっともらしい説明もなされる。しかし、例えば給料が30万円から40万円に一気に上がる場合ならまだしも、多くの場合は2-3%の賃上げに止まるとすれば、給料は一般的には、先の例で言えば30万円から31万円弱に増えるにすぎない。そのような誤差の範囲にとどまる賃上げで、消費が増えるとは考えにくい。
第二に、なぜ2%のインフレが望ましく、1%のインフレだと不足なのだろうか? 1%か2%かというのは、誤差の範囲であり、そんなに狭いレンジでのインフレ率達成を中央銀行が担うという入口の議論自体が不適切ではなかろうか?私がアベノミクス前に感じていたのは、1ドル80円前後に円高が進行する中でわずかなデフレ状態にすぎなかったということは、為替調整後のベースではインフレだったのではないかという疑問である。その中で、円安にすれば、黙っていてもインフレになりますよね?そのような中で、石油価格急落という日本国民の多くが願っていた事態が発生した。多くの一般人は、ガソリン価格の下落を見て気分が明るくなり、その差額分で旅行でも行こうかとか考えたのではなかろうか?そして、石油価格下落により、本業を忘れてバランスシートに闇雲に資源関連資産を組み込んだ商社などの一部のセクターは別として、多くの企業にとってはコスト削減を通じたマージン改善効果まで見られている。それなのに今度は、エコノミストや日銀が、石油価格下落でインフレ率2%目標を達成できないとかいって、更なる金融緩和まで実行して、無理やり物価を上げようとしている。これって、生活者や一般企業からしたら、傍迷惑な話に思える。感覚的に見ても、非資源国家の日本にとっては、石油価格下落は直接的には極めてポジティブなことであり、それは、第一次オイルショックから40年以上にわたって石油高に苦しめられてきた日本人にとっては、フルに享受すれば良いのではあるまいか?もちろん、日本としては、この石油安の原因に目を凝らし、その原因となるものが世界経済を悪化させめぐりめぐって日本に余波が押し寄せる可能性には十分注意する必要がある。しかし、少なくとも「現在」は、石油安効果を謳歌してよいと思えるのだ。
「期待」経済学の限界
現代の経済学は、過度に「期待」という概念に依拠しすぎているように感じられる。そして、世界的な需要停滞や、先進国の高齢社会化入りなどを背景にしたインフレ圧力低下に対し、「インフレ期待は善」との半ば宗教的信念の下で、金融緩和を行っている。しかも、単なる金利引き下げならまだしも、世界の中央銀行は、国債や資産担保証券を買ったり、日銀のように株やREITまで買ったりしている。要は、現在は、「インフレが望ましい」という抽象的かつ証明困難な正義に基づき、それを実現すべく、禁断の金融政策と思われる「中央銀行による国債ファイナンス」が平然と行われている状況だ。これって、目的が不明瞭であるのに対し、手段が過度に危険過ぎないだろうか?
現在、中央銀行がむちゃくちゃな金融政策でインフレに持っていこうとしている姿は、「北風と太陽」という寓話で、北風が旅人の衣服を無理やり脱がしている姿に重なって見えてしょうがない。仮に、旅人のコートが脱げても(人の消費が増えても)、それは旅人の意思には反する(消費額を抑えたいがインフレ下で難しい)というところは、寓話とそっくりである。旅人にコートを脱がすためには、脱ぎたいと自発的に思わせることの方が有効であろう。仮に、旅人がコートを脱ぐ行為を「消費や投資の自発的増加」と同視すると、その増加を自発的に促すためには、個々人が老後まで見据えて明るい未来を描けることが必要であり、そのためには、安心できる年金制度や医療システムの構築、消費税率の現状水準での維持、などの政策が有効であろう。これが、「北風と太陽」で言えば「太陽」に相当する施策であろう。しかし、現実的には、年金制度については支給開始年齢がどんどん先延ばしになることが確実視される上に、医療費の負担割合の継続的増加や、消費税の継続的引き上げ、女性活用を隠れ蓑にした配偶者控除の廃止、相続税引き上げ、など、一般人が容易に見通せる暗い未来がそこかしこに散見される。そして、この状態が解消されるわけがないという「負の期待」が蔓延し、その「負の期待」を払拭できないことが子供にでも容易にわかっている中、知識人の多くがインフレという北風を吹かして、人々の「負の期待」を人為的に吹き飛ばそうとしているように思えてならない。
かように、現在の経済学は、「期待」という概念を、ある時には微妙にすり替え、またある時には密かに定義を拡大して、もともとの期待経済学とは似て非なるものを作り出しているように思えて仕方がない。そして、現在の金融政策が醸成しようとしているのは、「自然な期待」ではなく、「不安や歪みを随伴した不自然な負の期待」のように思える。両方とも、消費を拡大させるかもしれないが、その実質は、自然恋愛と援助交際くらい違う。しかし、両者を外見で区別するのは難しいし、エコノミストは両方とも「同じような消費量を生む男女のいちゃつき」という同じラベルを貼って同視するのであろう。このように、経済学は、うきうきとした気分で行う消費一単位と、食べ盛りの子供の空腹を満たしたいとの願いの下でインフレを恨みながら主婦が行う消費一単位を、区別できない。これなどは、事象をデータでしか捉えられない経済学の限界の一端を示しているように思われる。
大木昌光