No.0124

ESGに対する違和感

ESG(環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字)の流れが不可逆的に進んでいる。企業が社会的存在であることを考慮すると、それは基本的に正しい方向性であろう。しかし、少なからず問題点を内包している点には注意が必要だ。
例えば、ESGのEが、脱炭素に偏り過ぎていないか。地球温暖化防止に向けた脱炭素の動きは重要だ。しかし、例えば、原子力については、脱炭素に貢献するからお咎めなしというのはいかがなものか?地球温暖化が「じわじわと」「地球全体の」環境を傷つけるのに対して、例えば、原子力発電で放射能漏れが起きると、「一気に」「特定の場所の」環境を傷つける。その中で、炭素を相対的に多く発する石油や石炭による発電はダメで、炭素を排出しない原子力は良いという議論は、あまりに短絡的ではないか。 そして、ESGの推進役となっている欧州の中では、電力の多くが原子力で賄われている国があったりする。脱炭素に偏向して、公平感を欠く我田引水的な動きになっていないかどうかは、よくチェックする必要がある。
本来、このような疑問は、東北大震災で原子力発電の問題が顕在化した日本から、より強く発せられるべきだと思われる。しかし、現実には、ESGの流れに安易に追随する日本企業や日本人があまりにも多いような気がするのは私だけであろうか。
ちなみに、私は原子力発電という仕組自体を、あまり信頼していない。それは、上記のような放射能事故が日本で起きたからではない。放射能事故が起きたときに、テレビ出演した原子力の専門家の何人かが、原発施設のメルトダウンの可能性について否定的な意見を述べていたのにもかかわらず、実際はメルトダウンを起こしていたことが理由だ。つまり、原子力の専門家でさえ、原子力発電のリスクを捉えられていなかったのだ。それは、制御できていないことと同義ではないのか。制御が難しい危険物を使って脱炭素を実現するのと、制御が容易な石油や石炭を使ってある程度の炭素排出を許容するのと、どちらがいいのかという非常にシンプルなロジックは、どのように議論されてきたのか。
このように、最近は、ESGやコーポレートガバナンスなどの分野で、反論不可能な一般論を振りかざして、咀嚼不足の生煮えの個別案を強いるという例が多いように感じられる。ここで求められるのは、「総論賛成、各論反対」という立場だと思う。
ちなみに、私は、原子力発電自体を頭ごなしに全否定するつもりは毛頭ない。もし、セキュリティ機能を高めることで、原発に伴うテールリスクを格段に極小化できるなら、設置場所や使い方に最大限の配慮を行うことにより原発機能を使ってよいと考えている。ここで申し上げたいのは、石油や石炭がダメで、原子力は良いという短絡的な区分けがおかしいのではないか、この点だけ捉えてもESGの各論が突っ込みどころ満載なのではないか、ということだ。2月の米国のテキサス州での停電や、1月の日本での電力スポット価格急騰は、理念が実態から乖離していることによるリスクの一端が顕在化したものと見ることもできよう。したがって、今後は、理念先行の動きに修正が加わり、例えば、石油や石炭、天然ガスが反動的に見直される可能性が十分にあると私は考えている。
電力セクターのアナリストの誰かが、この問題に真正面から取り組むことを期待している。

大木 将充