自分で本を出版したという経緯もあり、他の著書を批評することには慎重になるべきだと考えている。しかし、『人新世の「資本論」』には、違和感を抱いたのみならず、その資本主義批判とマルクス主義礼賛の間のバランスが過度に崩れていて、これからの世界を担う若い人たちの価値判断を、極端な方向にミスリードする危険性を感じた。だから、所感を述べたい。
まず、この本は、一言で言えば、現代の世界における様々な問題点の中から「地球温暖化」と「富の偏在」という2つの問題を主に取り上げて「資本主義」をその犯人として非難し、「マルクス主義」に今後の答えを見出そうとしている。
「地球温暖化」の主因が本当に炭素排出なのかという科学的疑問は無視して炭素を地球温暖化の「犯人」という前提で論を進め、「資本主義」が果たしてきた貢献面にはほとんど目を向けずその負の側面のみに目を向けて、資本主義を地球温暖化と富の偏在の「犯人」と断定している。それでいて、マルクス主義を何らかの意味で採用しながら「モノの所有に関わる私権を制限する」かつてのソビエト連邦や現在の中国で、なぜ「モノの所有以外の様々な権利(人権を含む)も制限する」方向性に向かっているかについて、何も分析がなされていない。その両国における実験的結果を通じて、「共産主義」という仕組み自体の中に、人類の永遠の願いである「自由・私権の尊重」の実現を妨げる何らかの危険なファクターが内在している可能性が眠っているように思われる。それには一顧もせずに、「さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう」などと能天気に語ることが適切なのであろうか?
世の中には、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、携帯電話、ネット小売、在宅勤務といった、資本主義による具体的な恩恵物が無数にある。そして、そうした資本主義の産物である恩恵物にどっぷりと浸かりながら、資本主義の負の側面を批判するようなバランス感に欠けているように見える人が少なからず存在する。ESG(環境(Environment)、社会(Social)、ガバナンス(Governance)の頭文字)観点で石油・石炭を非難しながら、私生活でガソリン車に乗っている人に対して感じる違和感と同様の思いを禁じ得ない。
物事には、何でも正の側面と、負の側面がある。それは人間だって資本主義だって同じだ。「正」の側面が有意に大きいのであれば、なるべくそれを生かした形で「負」の側面を減らす柔軟な対応が適切のように思う。「正」の側面を軽視して「負」の側面を過度に非難し、その全てを否定するロジックには賛成できない。そして、共産主義もその観点から、個人の好き嫌いを乗り越えて評価すべきであるが、私は、人間にとって最も重要な「自由・私権の尊重」がないがしろにされる傾向が実験的に色濃く表れている部分を、軽視してはいけないと考えている。
以上を考慮して、仮に今の世の中で、地球温暖化と富の偏在の問題が最重要だと仮定しても、私は、資本主義の枠組みを残したまま、それを修正する形で対応していく方向性を支持したい。マルクスを呼び起こすことについては、現代社会における何らかの教訓はあるのかもしれないが、敢えてそこに回帰する必然性は薄く、現代人がマルクス以外の考えも広く採り入れて、新たな思考を積み重ねていけば良いと思われる。わざわざ、次世代の仕組みの土台にマルクスの考え方を据えること自体に、思考の飛躍があると感じざるをえない。
大木 将充